石川直義氏「岩倉欧米派遣使節団の世界一周の旅と伊藤博文」―幕末と明治新政府の真実―

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岩倉欧米派遣使節団の世界一周の旅と伊藤博文
―幕末と明治新政府の真実―

歴史研究家・元日本郵船㈱神戸支店長・日本郵船航空監査役
石川 直義 氏

 ワールド・フォーラム5月例会では、歴史研究家・元日本郵船㈱神戸支店長・日本郵船航空監査役 石川 直義 氏をお招きして、明治新政府の誕生後間もなく大規模に派遣した岩倉欧米使節団の派遣について、 映像を交えながらその旅を辿っていただきました。誰の発議で、何故この大計画が企画され、どのように実行され、誰が行けて誰が行けなかったのか?派遣団は世界を、また世界の中で日本の姿をどう見たか?この派遣団と留守の残りの明治政府との間に何があったのか?帰国後に起きた明治7年の政変の背景や後の明治政府の方向に如何なる影響を与えたか?等について、伊藤博文の明治天皇制擁立において果たした役割とについて 「岩倉欧米派遣使節団の世界一周の旅と伊藤博文 ー幕末と明治新政府の真実―」 というテーマで、お話戴きました。岩倉欧米派遣使節団の世界一周の旅とその歴史に果たした役割、伊藤博文らについてお話戴きました。

 「フルベッキ写真」という謎の後の明治政府の元勲達の集合写真が残されていて、幕末の長崎の上野彦馬のフォトスタジオで撮影され、その中心にオランダ系無国籍ユダヤ人のフルベッキというキリスト教伝道師・英語教師が写っております。 その後、明治新政府顧問として初期の新政府で大きな役割を果たしました。そのフルベッキこそが、岩倉欧米派遣使節団の派遣の主唱者でありました。岩倉はじめ旧佐賀藩士大隈重信や旧長州藩士伊藤博文ら旧佐賀藩英語塾「致遠館」の英語教師 フルベッキの愛弟子達が、岩倉欧米派遣使節団と明治新政府の原点であります。

岩倉使節団の世界一周の旅について

 明治政府が廃藩置県を断行した直後に派遣した岩倉具視を団長にする遣外使節団である。 日本を出発したのは1871年(明治4)12月23日で、帰国が1873年(明治6)9月13日で約1年10ヶ月かけて米欧12ヶ国を歴訪した。

 使節団の目的は第一が、条約締結した各国の元首に国書を捧呈、第二に条約改正の暫時延期を含めた改正交渉、 第三に欧米諸国の制度・文物を調査・研究であった。その内第二は最初の米国で失敗し、結局第三が最重要となった。 この調査結果を踏まえて明治国家の骨格が形成された。

 使節団のメンバーは岩倉以外に副使として大久保利通・木戸孝允・伊藤博文・山口尚芳ら48名の使節団に加えて団琢磨・ 中江兆民・津田梅子ら留学生59名計107名が横浜から出発した。 使節団の特徴としては、使節の中心は明治政府の実力者を網羅、書記官は幕臣が多く、皆若かったことである。(平均年齢30歳) 岩倉使節団がみたもの、第一が科学/技術でであり、これについてはもうお手上げでその実用的価値については疑問の余地はなく 摂取しかないと考えた。しかし同時にその遅れは40年とクールに判断した。第二に、風俗/習慣で、例えば男女の関係、 親子の関係、そして宗教つまりキリスト教である。これについてははっきり違和感を持つ。キリスト教が西欧人の胸中深く 信心されて、勤勉や品行の基になっていることを理解した上で、日本の行き方としては固有の神道を基礎として天皇中心の 国家建設に結論を出した。第三に、憲法と政体で、独立国家として近代国家の仲間入りをするためにプロシア憲法を下敷きにした 「君民共治」の木戸の考え方を発展させて伊藤博文が天皇を機軸に置いた憲法を制定した。 この旅は植民地主義が世界を蓋っていた時期に後進国が独立を守りながら近代国家を建設するために政府が派遣した使節団で他国に例のない 英邁な決定であった。その時期が良かった。PM社の定期航路開設が1867年、米国大陸横断鉄道開通が1869年、スエズ運河開通が 1869年で世界一周旅行が可能になった直後である。ジュール・ヴェルヌ「八十日間世界一周」もクック商会の世界旅行販売開始も 同じ1871年である。

 この旅にいくらの経費がかかったかについては金子堅太郎が100万両(100万ドル)掛かったと書いているので現在に 換算すると30億円と推定される。(当時留学生年間千両だが現在3百万円として3000倍) 国家財政厳しい時期にこの支出無謀とも 言うべき投資だったが、明治国家建設を考えると安いというべきか。

講師プロフィール:石川 直義

山蔭基央氏1935年神戸市生まれ 1960年一橋卒業、日本郵船㈱入社、1985年タイNYK社長 1992年神戸支店長参与退職。1995年青山学院大学非常勤講師。2004年郵船航空監査役退任。現在米欧亜回覧の会幹事。講演活動等で活躍。

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